門松の由来や歴史を知ることは、日本のお正月を知る一助にもなるでしょう。
正月には、各家々に訪れる年神様(としがみさま)をお迎えしてお祀りしてきました。年神様とは、豊作や家内の安全を守る神様であり、ご先祖様でもあります。その年神様が訪れる目印として、門松をお飾りするのです。常磐木(ときわぎ=常緑樹)に神様が宿ると思われていたことから、お正月に家の門に常盤木をお飾りしたのが門松の始まりのようです。
神様が宿ると思われてきた常盤木の中でも、松は「祀る」につながる樹木であることや、古来の中国でも生命力、不老長寿、繁栄の象徴とされてきたことなどもあり、日本でも松をおめでたい樹として、正月の門松に飾る習慣となって根付いたようです。能舞台には背景として必ず描かれており(松羽目・まつばめ)、日本の文化を象徴する樹木ともなっています。
逆に、門松に松以外の常緑樹で杉、楠(くすのき)、榊(さかき)などを用いるところもあります。神戸市の生田神社では杉を、神奈川県の箱根神社では榊や樒(しきみ)を用いています。
門松の形も、様々なものがあります。『日本の門松』では「関東」と「関西」をご紹介しています。
「関東」では、松は竹よりも低く竹の足元に挿していますが、「関西」では、松は竹よりも高く、竹を扇型に囲むように挿します。 その他にも地方や習慣によって様々な形があるようです。同じ関西でも兵庫県西宮市の西宮神社では「逆さ門松」といって、松を上下逆さまに挿します。これは、神様が降りてくる際に松の針葉が刺さらないように下に向けるのだそうです。
門松が文献として現れるのは、平安時代の後期です。 惟宗孝言(これむねのたかとき 1034~1096に活動)が『本朝無題詩(ほんちょうむだいし】)』に納められた詩に、次のように歌っています。
“門を鎖しては賢木(さかき)もて貞松に換ふ”
門を閉じ賢木を松のかわりに挿したとして、その注釈に
“近来の世俗皆松を以って門戸に挿す、而るに余賢木を以って換ふ”
と述べていることから、平安時代後期には、すでに正月に「松を門戸に挿す」習慣が近来の風習となっていたことがわかります。また、松の代わりに常緑の賢木を飾ることもあったのでしょう。
ずばり「門松」を最初に詠んだのは藤原顕季(ふじわらのあきすえ 1055~1123)で『堀河百首(ほりかわひゃくしゅ) 除夜』に
“門松をいとなみたてるそのほどに春明がたに夜や成ぬらん”
大晦日に門松をたてはじめ、元旦の明け方になってしまった、とのこと。どんな門松をたてようとしたのかと、おかしくもあり興味をそそられますね。
鎌倉末期、吉田兼好(よしだ けんこう 1283~1352頃)は京の都の元旦の情景を
“大路のさま、松立てわたして花やかにうれしげなるこそ、又あはれなれ。”
都大路には門松が立てつらなって、花やかに嬉しげだと感慨を深めています。
出典は明らかではないようですが、あの一休和尚(1394~1481)が詠んだとされる狂歌では
“門松は冥土の旅の一里塚、めでたくもありめでたくもなし”
と、ちょっと斜に構えた歌ですが、お正月の街には門松が定着していた様子がわかりますね。
『日本歳時記』では正月14日に 門松注連縄(しめなわ)を去としていて、東京でも江戸時代の前期には、松の内は1月14、15日頃までだったようです。その後1662年に江戸幕府により、1月7日を以て飾り納めを指示する松の内短縮の通達が江戸城下に発せられ、それ以降関東では徐々に1月7日までが「松の内」になっていったと考えられます。
江戸時代後期の『東都歳時記』で、正月1月6日のところで
“今夕門松を取納む。承応の頃までは十五日に納めしとなり”
とあることからもわかります。
※承応(じょうおう)は、松の内短縮の通達の出た1662年の数年前の年号
一方、松の内短縮の通達に関係の無かった関西地方では、今でも1月15日までを「松の内」として、15日に門松を納めています。